小淵沢報瀬は地獄に落ちない

 目標を達成したとき、または達成できなかったとき、どんな反応をしたらいいのでしょうか。

 

 『宇宙よりも遠い場所』で小淵沢報瀬が南極に到達したときの第一声は「ざまあみろ。あんた達がバカにして鼻で笑っても私は信じた。絶対無理だって裏切られても私は諦めなかった。その結果がこれよ。」でした。賛否両論のこのセリフは彼女の性格、目標達成までの道のりを色濃く反映した一言だった。

 強気で頑固で目標のためなら孤立と立ち向かえる小淵沢報瀬を印象付けるセリフとして「言いたい人には言わせておけばいい。今に見てろって熱くなれるから。そっちの方が、ずっといい。」というものがある。そんな彼女をその性格のまま物語の勝者にできるだろうか。性格の悪い報瀬は物語で淘汰されこそしないが、何かをきっかけに成長し改心するというプロットを想像していた。しかし、報瀬は性格悪いまま母親への気持ちと踏ん切りをつけるという主題を回収していった。彼女の成長プロットに性格改善はなかったということだ。

  何かを成し遂げた偉人の物語で「成し遂げるまではバカにされ続けた」なんてのはよく聞く話だ。彼女は南極へ行くと公言し、学校では「南極」と呼ばれバカにされていた。強気で頑固な性格の彼女は棘のある描かれ方をされていたが、本当に悪意があるのは当然彼女をバカにしているクラスメイト達だろう。

 そもそも報瀬が南極に行くのは行方不明になった母親へ踏ん切りをつけるためである。素晴らしいじゃないですか。そんな彼女の性格に改善の余地などなかったのかもしれない。

 

次にこのシーンでの報瀬について考える。

 報瀬は「私は性格悪いから」というが、友達を傷つけた奴らを追い払うのは全くおかしなことではないだろう。この局面を通して日向が泣き寝入り癖をやめるプロットは十分考えられる。

  しかし、本心を隠し泣き寝入りして全て心の内に抱え込み空元気で周りに悟らせないようにする三宅日向と対照的な報瀬がこの局面を乗り越えさせたことで、ありのままの日向が許容されたのである。

 宇宙よりも遠い場所』では成長を強要しない優しさがある。(言葉が詰まる報瀬を後押しするキマリと友情に関して過剰反応する結月が端的に二人の性格を表していて好き)

 

 

 

 

 では、キマリの親友である めぐっちゃん こと高橋めぐみはどうだろうか。

 

  何かに一生懸命打ち込む人を見て、羨ましく思ったり焦燥感を覚えることはありますか。一歩踏み出した友達の足を引っ張りたくなってしまう自分を嫌悪したことはありますか。

 

「最初にお前が南極に行くって言ったときに、なんでこんなに腹が立つんだって思った。昔からキマリが何かするときは私に絶対相談してたのにって。」

「自分に何も無かったから、キマリに何も持たせたくなかったんだ。ダメなのはキマリじゃない。私だ。「ここじゃないどこか」に向かわなきゃいけないのは、私なんだよ。」

これはキマリが南極に行く朝に絶交しに来ためぐっちゃんのセリフだ。

 

 高橋めぐみはまた厄介なキャラクターである。「私がいないとダメなキマリ」という他者を通してしか自分を規定できずに、依存しているのは自分の方で、そんな自分に気づいていながら、一歩踏み出そうとしているキマリが羨ましくて仕方ない。嫉妬故に足を引っ張りたくなってしまっている。

 学生には思春期特有の鬱屈とした日常への代替可能で一過性の脱出欲求があり、キマリ達はその非日常性を南極に求めている。高橋めぐみも勿論それの例外ではなく脱出欲求を持っている。

  しかし、キマリ達の擬似的な自己実現の様を目の前で見せられ、しかもそれが自分に依存していると思っていた存在だった事から、自分から独立し一歩踏み出しているキマリを見て腹が立っていると同時に、そんな気持ちを抱いてしまっている自分に戸惑っているのだ。

 この構造は個人的に一番共感するコンプレックスだった。しかし、これは擁護しようもなく性格が悪いだろう。そんな彼女はこの物語でキマリからの依存を断ち切り、自分の力で「ここじゃないどこか」に踏み出すことに成功している。彼女はこの物語で唯一性格的に改善することが要請されたキャラクターだったのかもしれない。

 

 

 小淵沢報瀬と高橋めぐみという癖のある二人は、物語の中で変化の有無という違いがあった。高橋めぐみの性格の悪さは自分自身の弱さから、小淵沢報瀬の性格は人一倍の正義感と頑固さ故の強さからきている。

  しかし、どちらの人間を責めることも誰にもできないのではないだろうか。少なくとも私の中には大いに二人のような面があり、ハッとさせられるキャラクターだった。最高の作品に必要な最高のキャラクターだ。